田原の里 歴史ウオーク

田原の里は、奈良市の中心から約10km東部に位置し、標高200~500mで、東山中とも呼ばれ、大和高原の一部をなし、冷涼な気候を活かし茶の栽培が盛んで、「大和茶」として有名です。
田原では、昭和54年1月に日本最古の歴史書「古事記」の撰者「太安萬侶」の墓誌が茶畑の開墾中に発見されて、全国的に有名になりました。この墓誌により「太安萬侶」が実在の人物であったことが証明されて、歴史研究家や歴史愛好家からも注目されています。さらに、ここには光仁天皇陵や春日宮天皇陵もあります。
バスの本数が少ないため、時間調整が必要な場合、田原ふる里ホットステーションや田原やま里博物館(事前予約必要)もあります。

コースは一例です。
ご希望に沿って自由に設定できます。


コース番号 ST-300
所要時間 約4時間
歩行距離 5.5km
対象期間 年中
費用(公共交通費・拝観料等) 約1,310円
利用交通機関 バス

一般の方の申込み

学校関係の方用申込み

このコースの概要
いち押しポイント
耳寄り情報
地図

みどころ 参考コース順路(一例です。)
光仁天皇陵(田原東陵)
志貴皇子の第6子で白壁王と呼ばれ、第49代天皇となる。62歳で即位、在位は10年で781年広岡山陵に葬られ、786年当地に改葬される。皇統はこれまでの天武系から天智系へと転換された。
東西径38m、南北径30m、高さ8mの円墳
太安萬侶の墓(国史跡)
昭和54(1979)年茶畑改修中、径4.5mの円墳を偶然発見した。中から火葬骨を入れた木櫃と周囲を取巻く木炭、副葬品の真珠、墓誌が出土した。墓誌は長さ約29cm、幅約6cmの銅板に2行書き41文字が彫られている。古事記編纂の太安萬侶の名前が刻まれ、養老7(723)年12月15日に亡くなったことが記されている。
(墓誌は国の重要文化財に指定)
春日宮天皇陵(田原西陵)
天智天皇の第7子志貴[施基]親王の田原西陵である。壬申の乱で皇統は天武系に移り、施基親王は田原春日宮に閉居、墓もその地に営まれた。親王の第6子の白壁王が天智系の光仁天皇となるや、親王は春日宮御宇天皇「カスガノミヤアメノシタシラシメシシスメラミコト」と追号された。白毫寺は施基親王の山荘跡と伝わる。万葉集に6首を残す。
場所 内容
近鉄奈良駅 出発場所 ここでトイレを利用できます。
 バス移動 下水間、北野行きバス乗車 35分
「日笠」バス停 下車
 徒歩移動 15分
北浦定政顕彰碑 5分
 徒歩移動 5分
光仁天皇陵(田原東陵) 10分
 徒歩移動 20分
太安萬侶の墓(国史跡) 15分 ここでトイレを利用できます。
 徒歩移動 30分
松本邸(奈良市指定文化財) 10分
 徒歩移動 10分
田原ふる里ほっとステーション ここでトイレを利用できます。
 徒歩移動 20分
春日宮天皇陵(田原西陵) 10分
 徒歩移動 5分
「田原御陵前」バス停 乗車
 バス移動 近鉄又はJR奈良行きバス乗車 25分
近鉄奈良駅 終了場所 ここでトイレを利用できます。
ここでトイレを利用できます。 ← 左のマークの場所では、トイレをご利用いただけます。

「第49代 光仁天皇(709~781)[在位770~781]と激動の時代背景」
  諱(いみな)を白壁といい、天智天皇の皇子・施基親王を父とし、紀諸人の娘・紀橡媛を母として、和銅2(709)年に誕生する。宝亀1(770)年62歳で第49代天皇に即位する。
光仁天皇への皇位継承により、皇統はそれまでの天武系から天智系へと転換される。『続日本紀』に、「天平勝宝よりこのかた、皇位を継ぐ人が決まらなかったので、人々はあれかこれかと疑って、罰し廃される者が多かった。白壁王はこうしたことから、思いがけない災難に遭う事を用心して、あるときは酒をほしいままに飲んで行方をくらます等により、その害を免れた。」とみえるように、聖武天皇以降の皇位継承には、廃帝や重祚(ちょうそ)などの支障が伴なったことから、白壁王もあらぬ疑いを避けるために苦心惨憺する。
白壁王は、妃に聖武天皇の皇女・井上内親王を迎え、天皇即位とともに皇后とした。また、天皇に即位すると、肥後国からの白い亀の献上をもって祥瑞とし、宝亀元年に改めた。井上皇后との間に生まれた他戸(おさべ)親王は、諸兄をさしおいて、宝亀2(771)年12歳で皇太子となった。
しかし、光仁朝にも皇位継承を巡る紛争が生じた。宝亀3(772)年、井上皇后は、光仁天皇の姉・難波内親王を呪い殺した、あるいは他戸親王の早期即位を願って天皇を呪詛したとして、藤原百川の捜索を受け、皇后と皇太子ともに廃されることになった。
そこで代って山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となる。山部親王の立太子には、親王の母である高野新笠が百済系渡来人の出身であることから、反対の声もあったが、藤原百川らの力により、山部親王は皇太子になった。

「北浦定政(1817-1871)」
  奈良古市(ふるいち)の人で、藤堂藩(三重県津)に仕えた。若年の頃から学問を志し、好学の人で、国学の本居宣長(1730~1801伊勢松坂出身)を師と仰ぎ、国に尽くすために古代天皇陵の考証や修復に努めて、奈良朝七代の皇都の追求に努めた。彼の平城京跡の実証的研究は、江戸時代の終わり近く、大和盆地の水田地割である条里制や天皇陵墓の比定に多大な貢献をした。特に平城京の条坊地割を、広範囲に正確な測量を通じて見事に実証した事は画期的な業績と評価される。平城京研究の原典とも言うべき「平城宮大内裏跡坪割之図」を1852年36歳で完成している。
定政の平城京の研究と保存の業績は、のちに棚田嘉十郎・溝辺文四郎らによる平城宮跡保存顕彰運動として受け継がれ、学問の面でも、関野貞、喜田貞吉両博士による平城京・宮に関する論考の出発点ともなった。
「殯(もがり)の森」
  河瀬直美監督の映画「殯の森」が、平成19(2007)年に第60回カンヌ国際映画祭で審査員特別大賞[グランプリ]を受賞しましたが、この映画で撮影された茶畑は、当地の茶畑です。

田原の里 歴史ウオーク(その他)

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