奈良きたまち・聖武天皇陵

「青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の 匂うがごとく 今さかりなり」
(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり) と、
爛漫と咲き誇る桜花のように美しく栄えていると歌われた奈良朝。
しかし、表面の華やか さの裏には、別の面があったようです。
奈良時代の象徴的な存在となっている聖武天皇にゆかりのある場所を訪ねて見ましょう。

コースは一例です。
ご希望に沿って自由に設定できます。

■拝観料
大仏殿:500円 戒壇堂:500円 般若寺:500円


コース番号 NM-211
所要時間 約3~4時間
歩行距離 6.5km
対象期間 年中
利用交通機関 バス

一般の方の申込み

学校関係の方用申込み

このコースの概要
いち押しポイント
耳寄り情報
地図

みどころ 参考コース順路(一例です。)
東大寺大仏殿
世界最大の木造建築と評される迫力。そこに鎮座する毘盧舎那仏は、743年「仏教に帰依し、動植物が共栄することを願う」との聖武天皇の大仏造立の詔の発布によって着工され、752年開眼供養が行われました。不幸にも1180年と1567年と2度にわたり焼き討ちされますが、現在の大仏殿は1709年に建立されました。その約20年前、松尾芭蕉は東大寺を訪れていますが、その時に 「初雪や いつ大仏の 柱立」 の句を残しています。
正倉院
聖武天皇の崩御より49日目に、お后の光明皇后が天皇遺愛の品々600点余りを毘盧舎那仏に奉納されたのが正倉院御物の始まりです。その後6回にわたって大仏に捧げられた献物が正倉院宝物の骨格となり、ここで保管されてきました。その由緒・伝来の正しさ、質の高さ、さらに量的な豊富さに他の追従を許さない神聖な宝物群が、現在まで伝承されてきたのはまさに奇跡としか言いようがないでしょう。帝室博物館の総長であった森鴎外は次のように詠んでいます。「夢の国 燃ゆべきものの燃えぬ国 木の校倉の 永遠に立つ国
奈良女子大学記念館
正門から真前に見える記念館(旧本館)は、守衛室とともに重要文化財に指定されています。屋根の中央に頂塔(ランタン)を設けたり、明かり取り窓を設けるなど、屋根の形に変化をもたせています。外観はヨーロッパ北部に見られる、木部を外に表す壁構造のデザインです。
(竣工;明治42年、木造)
場所 内容
JR・近鉄奈良駅 出発場所 ここでトイレを利用できます。
 バス移動 市内循環バス 5分
東大寺大仏殿 30分 ここでトイレを利用できます。
 徒歩移動 5分
戒壇堂 20分
 徒歩移動 10分
正倉院 10分
 徒歩移動 30分
般若寺 20分 ここでトイレを利用できます。
 徒歩移動 35分
聖武天皇陵(佐保山西陵) 10分
光明皇后陵(佐保山東陵) 10分
 徒歩移動 10分
奈良女子大学記念館 10分 ここでトイレを利用できます。
 徒歩移動 10分
JR・近鉄奈良駅 終了場所 ここでトイレを利用できます。
ここでトイレを利用できます。 ← 左のマークの場所では、トイレをご利用いただけます。

聖武天皇の御心が端的に表現されている次の記述を、「続日本紀」天平6(734)年7月12日大赦の詔からご紹介します。現在の世情を思うとき、深く味わう必要があるような気がしませんか?
「朕が人民をいつくしみ育てることになってから何年か経った。しかし教化はまだ充分でなく、牢獄は空となっていない。夜通し寝ることも忘れて、このことについて憂え悩んでいる。この頃天変がしきりに起こり、地はしばしば震動する。まことに朕の教導が明らかでないために、人民が多く罪に落ちている。その責任は朕一人にあって、多くの民に関わるものではない。・・・・・」(現代語訳)
法華寺には、光明皇后を讃える話がいくつか残っていますが、その内の2題をご紹介しましょう。
「十一面観音立像」
昔、天竺(インド)の見生(けんしょう)王が、生身の観音を拝みたいと願ってい たところ、夢のお告げで「東方の日本という国に光明皇后という観音がいる」と聞きました。そこで仏師を日本に派遣し、光明皇后のお姿を像に彫って持ち帰るように命じました。仏師は、蓮池の中を歩いている光明皇后のお姿を十一面観音の像に三体彫り上げ、一体は宮中に献上し、一体は天竺の王に持ち帰り、一体は 施眼寺に安置しました。宮中に献上された一体が、現在法華寺にまつられる十一面観音立像と伝えられています。
また、この話を伝え聞かれたインドの故ネール首相は、昭和32年に訪日の際、法華寺に参詣され十一面観音を拝み、故国の仏像とあまりにも相似しているのに驚かれたということです。
「から風呂」
光明皇后はから風呂で1000人の垢を流すという誓願を立てられました。999人を終えられたところ、1000人目の人はライを病んだ人で、「膿を吸ってもらわないと自分の病気は良くならない」と訴えました。皇后は一瞬ためらわれましたが、病人の願いを聞き入れて、その患部に唇を当てると、病人の体は見る見る美しくなって光を放ち、姿を消してしまいました。病人はあしゅく仏の化身であったというわけです。この伝説のように、光明皇后はたいそう慈悲深い方であったと伝えられています。

これ以外に聖武天皇や光明皇后と深く関わりのある場所をご紹介しましょう。
東大寺三月堂(法華堂)
716年、聖武天皇は光明子(後の光明皇后)と結婚され、727年皇太子基親王が誕生されましたが、基親王は翌年1歳になるのも待たずに逝去されたため、菩提を追修するために「金鍾寺(こんしゅじ)」が創建されました。そのお堂のひとつが、現在の三月堂といわれています。後に東大寺が建立される際に、聖武天皇は皇太子の思い出の地を選ばれたわけです。 東大寺三月堂(法華堂)
平城宮跡
聖武天皇が日常お住まいになっていた「内裏」は発掘調査に基づき、現在、高さ1メートルの柘植の木を植えて建物の柱の跡を表示しています。また、天皇が国家的儀式を行った場所である第二次大極殿では基壇も復原されています。これらの現場に立って、往時の人々の気持ちを想像してみるのもロマンチックではないでしょうか。 平城宮跡
『続日本紀』天平宝字4年(760)6月7日条には、光明皇后が亡くなられたとき、「・・・太后、仁慈にして志は物を救ふにあり。東大寺および天下の国分寺を創建せるは、もと太后の勧むる所なり。また悲田・施薬の両院を設け、以て天下飢病の徒を療養す」と記されています。すなわち、東大寺の創建も光明皇后によって推進され、また悲田院(現在の児童福祉施設)や施薬院(貧しい病人に薬を施す施設)を創設されたように、慈悲深い皇后であったと『続日本紀』は記しています。
1300年前につくられた平城京は、「条」と呼ばれた東西に走る道路と、「坊」と呼ばれた南北に走る道路が、碁盤の目のように整然と配置されていました。しかし、ただ一ヵ所だけそうではなかった交差点がありました。そこは、現在もそのままの不規則な状態で残っています。「法華寺」バス停のある信号のついた交差点がそれです。1300年前の道路が、現在もそのままの形で残っているのは何か不思議な感じがしますが、そうした歴史を今でも見ることができるのは、奈良でしか体験できないことではないでしょうか。
新薬師寺
今回は行程の都合で割愛しましたが、光明皇后によって建てられたもう一つのお寺に新薬師寺があります。新薬師寺は天平19年(747)、光明皇后が聖武天皇の眼病の回復を祈願して建立されたもので、「新」とは仏の霊験が「あらたかな」の意味です。 新薬師寺

奈良きたまち・聖武天皇陵(きたまち)

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